夏の昼下り、セールスマンは出払って、私(専務)と女子事務員四人が事務所で仕事をしていた(地方都市)。硝子戸が開いて、冷房の土間に二人の学生風の男が入って来た。

 

「この街の地図をお持ちではないでしょうか。あったら、一寸見せていただけませんか」といふ。「あるよ。大雑把なものもあれば、一軒一軒名前の入ってゐるものもある」

「それがいいです。拝見させて下さい」「靴を脱いで、その机を使いなさい」と地図を貸してやった。二人ヒソヒソ話しながら永いこと地図を見てゐる。手伝ってやらうと思って、そばに寄り、「君たち何を調べてゐるの」一人が鎌首をもたげた。「お宅は使用目的を明確にしなければ地図を貸与してくれないのですか」。カチンと来た。

 

「君、人の家に入って来て、その言ひ方は何だ失礼じゃないか」「何が失礼ですか。私は交番で人の家をたづねる時、いちいちお巡りに訪問目的を説明しませんがねぇ」「交番でお巡りにたづねるのと、人の家で地図を借りるのは、おのづから違ふと思ふがねぇ」「何処が違ふのですか。はっきり説明して下さいよ」。

 

もう一人が割り込んで来た。「一寸待て。我々は単に質問しただけだ。説明しなければ地図を貸してくれんのか、くれるのか質問しただけである。若し『貸す』といへば、そのまま借りて見てゐるつもりだし、『貸さぬ』といへば、返すつもりだ。然るに、あんたは失礼という言葉を使った。これは礼儀を失するといふ人を批難した言葉である。単に質問した人間に批難の言葉を吐いた。これを先づ陳謝してもらはうぢゃないか」

論戦十五分、心では納得しないが、論争の上で撃破され、完全に敗北した。とても大学総長をつるしあげる論法にはかなはない。

 

とに角、家宅侵入罪をもちだし退却してもらった。「お世話になりましたあ」と意気揚々と引きあげやがった。四、五日気分が快くなかった。

ある論争

父・河崎利明 遺稿集「はとからすやまとりのこみ」より

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