糸蒟蒻の話
 

 ある冬の夕方、渋谷の東急百貨店から家に電話した。「何か買って帰るものないか?」女房曰く、
「豆腐ある、ねぎある、牛肉ある、糸こんにゃくない」  生まれてはじめて糸こんにゃくを買った。ビニールの袋に入ったソーセージ形の糸こんにゃくはぶやぶやして、はなはだ感触がよろしい。クルクルと紙に包んでくれた。百二十円渡す。  
 百貨店を出ると外は暮れ、ラッシュアワーがはじまっている。
バスに乗り込んだ。たいそう混んでいる。  
 そのうち、前の人の外套の大きく開いたポケットが目に入った。スリをするのはよくないが、入れるのはどんなものだろう。家に帰ってこの人がポケットに手を突っ込み、あのグニャッとしたやつを掴むのはどんなものだろう、と、考えたらもう我慢できなくなった。紀ノ国屋のカーブのところで紙包みをほどき、ビニールのままストンと入れた。
 気付いた様子はない。いろいろ考えたが、やはり楽しかった。  
 近所の豆腐屋で糸こんにゃくをニヤニヤしながら買って帰った。

 

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  赤んべえ
 

 日光街道を乗用車で走行していた。前に比較的ゆっくり走るバスがある。追い抜こうかとした。ところが、バスは三台つらなって走っているので、対向車の関係から抜くことが出来ない。そこでバスの後ろをのんびり走ることにきめた。  
 前の車は、小学校五年生くらいの団体だ。最後部の一人がぼんやり後ろを見ている。視線があった時ハンドルから手を離し、右手の親指と人差し指で鼻を上に持上げ、舌を出した。  
彼はすごくびっくりした顔をし突然向き直って友達を呼び、八人の顔が後部の窓から現れた。彼はしきりに説明している。あの車に乗ったおっさんが、こんな顔をしたと手でやって見せている。  
 皆、私の顔をじっと見る。こちらは表情一つ変えない。まじめな表情だ。みんな嘘だと言い出したらしい。彼は必死になって説明し、私に向かって「やれよ、やれよ」と手をしゃくって合図する。私は依然無表情のままだ。がっかりして、一人へり、二人へり、また彼一人だけになった。そこで、また赤んべえをした。彼はこぶしを振っておこった。彼にとって信用問題である。

 

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  はとからすやまとりのこみち
 

 江戸時代、栃木県のひっそりとした山道、馬頭、烏山、鷲の子(とりのこ)山の別 れ道、馬河内という小さな部落の外れに、「はとからすやまとりのこみち」と彫った五十糎(センチ)位 の小さな道しるべがあった。この事は昭和初期の“民芸”という雑誌の写 真入りの小さな記事で知っていた。  
「馬頭・烏山・鷲の子道」と「鳩・烏・山鳥の小道」をかけたメルヘンの世界、江戸時代の農民の趣味の豊かさを示すものであった。此の石碑を訪ねて何度も烏山や馬頭を訪れた。どこに在る、ここに在るという間違った話で随分無駄 歩きし、やっと馬河内をつきとめた。二十年前からもう石碑はなかった。道路拡張で取り除かれたそうで、どこかの金持ちの別 荘の庭石にでもなっているのかも知れない。

 そこでひそかに復元を考え、烏山の姉が名筆なので一行に「はとからすやまとりのこみち」と書き、石の裏に小さく「馬頭烏山鷲の子道」と書いてもらい、古河の木村石材店のおやじに根生川石で二基つくってもらい一個は自分の家の庭先に置いた。白木蓮の大木の下である。  
もう一個はそっとライトバンにのせもとあった現地から一キロ程はなれた寂しい三叉路に立てた。江戸時代の重々しい万代無量 の石のうしろにひっそりとある。石屋の他に義弟も手伝ってくれた。石を立てている時「何をしているだね」と一人の村人が訊いた。「鷲の子神社の神主さんに頼まれただ」というと「はぁ、そうかね」で行ってしまった。凄く良い気持ちだった。  

 ところが、そのあとが大変。まず、朝日新聞の声欄に不思議な石が建ったとの名文の投稿が載った。
私の友人の友人の朝日新聞の記者が嗅ぎつけてやってきた。私をAという匿名で大きな記事にした。
地元でも大騒ぎになった。観光に使おう、それでは石が小さすぎる。そこで巨大な石に「はとからすやまとりのこみち」「勲○等栃木県知事 横山茂書」と彫って、これまた巨大な大野判睦顕彰碑の横に建てた。   
 俗悪な石である。本来はひっそり山道にあるべきものである。とにかく、がっかりした。江戸時代の村人と現代の村人とこうも趣味性が違うものだろうか。

 

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  一番古い記憶
 

 自分にとり一番古い記憶は何であるか、一寸した大問題だ。  
トルストイは生まれてすぐの“たらい”の感触を覚えていた。北原白秋は一歳の時、象の肌のような、海の面 を見た記憶がある。幼児追憶の文学には丸岡明の「幼年時代」、室生犀星「幼年時代」、トルストイ「幼年時代」、北原白秋「思い出序文」、芥川龍之介「少年」、大岡昇平「幼年」、夏目漱石「道草」、森鴎外「○タ・セクスアリス」、カロッサ、堀辰雄とあげ出したらきりがない。とにかく私は幼年追憶の文学が好きだ。  
 四歳の時の大震災の記憶は生々しい。その時父はよろけながら、(最後は四つん這いで)離れから我々の居る居間まで来た。木造三階建ての村沢旅館が倒壊したこと、夜、東京方面 が真っ赤だったこと、竹藪の中に提灯をつけて寝たこと、東京にいる大勢の親戚 が我家に避難してきたことなど、いくらでも覚えている。  
 三歳まで遡ると割に少ない。渡瀬の川原で船底に一枚のカルタが落ちていたこと。夜中、闇の中で目覚めたら、隣の部屋から明るい人の声が聞こえてきたこと。夏、二重の簾が木目模様に揺れ、バケツの水の紋が天井に反射し、揺れていたことなどである。  
 二歳の記憶はない。唯、ある夜に関するおぼろげな何かがある。どうしても捉えられない。この記憶をつかまえたら死んでもよいと戦地で思った。

   
高校の娘に、お前にとって最初の記憶は何かと訊いたことがある。
「パパ、うんこに旗さしたことない?」という。  
 思い出した。娘が四歳の頃、一緒に烏山に住む姉を訪ねた。途中、宇都宮のデパート食堂でお子様ランチとエビフライを食べた。食事が終わってから何となく日の丸の旗のついている楊子をお子様のチキンライスから抜き取りポケットに入れた。  烏山に向かう途中娘が「パパ、うんちゃん」という。林の中でさせ、紙を探したポケットからさっきの日の丸の旗も出てきた。そこで何ということもなく、うんこの上に刺した。これが娘の印象に強く残ったのであろう。  
  誰でも幼年の頃の記憶は神聖で美しいもの、そして、うら悲しいものである。それを汚したことを心から娘にすまないと思っている。

 

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 東京の坂の名
 

 麻布に家を買ったのは昭和三十五年だった。田舎の幼稚園で男の子に殴られ同年輩男性恐怖症になった娘を何とか東京の幼稚園に入れるためだった。麻布一本松の北京貴族中国人の所有の家で、まわりは大使館や外国人の住まいが多くエキゾチックでもあり、また震災、空襲をまぬ がれた江戸、明治の匂いも残っていた。近所にはやけに坂が多い。狸坂、暗闇坂、一本松坂、金魚坂、芥(ごみ)坂、仙台坂、狐坂、奴坂にかこまれた一郭だ。次第に歩く範囲を拡げ、麻布全体の坂の名の由来を調べ、江戸時代からの変遷を調べ、文学、歴史との関係を調べた。朝早くから車を停め、昔からその坂付近に住んでいた老人たちに話を聞く。羊羹を切り、お茶を御馳走してくれる家もあった。
 古河に士族の鷹見さん(鷹見泉石の曾孫)が居られる信濃町の東京都資料室に行くと、ふんだんに資料が揃っていて、御府内備考、江戸名所図絵、柳の一本(ひともと)、各区区史などから多くの資料を抜き出した。それから赤坂、小石川、谷中、市ヶ谷、高輪などどんどん拡大し、大きくカーブしていて何回もトラックがガードレールを破壊する立川の「とびこみ坂」まで遠走り、遂に八百ばかりの坂の名を採録し、実地も多く歩き、何冊かのノート切抜帳もふくらんだ。
 丁度その頃、横関英一氏の正、続「江戸の坂、東京の坂」更に石川悌二氏の「東京の坂道」が刊行され、読んでみるとどれも私の研究より精細にして深いものであった。明治、大正の文学との関係のみがいくらか私の方に多かった。横関氏とは関係が深い。横関氏は川越の、私は古河の共に肥料商人の息子であり、氏の勤務先小石川高校(旧東京府立五中)は私の母校であり、氏の師事する真山青果 氏は私に縁談のあった美保さんの父である。そんなことから横関氏とは彼の死まで文通 していた。

 坂の中には面白い名がある。早稲田の学生が名をつけた「おかめ坂」(目白。江戸時代は豊坂)は日本女子大生が早稲田の方へ多く下りて来るからで、別 名「ひょっとこ坂」は日本女子大生が報復的につけたものだが、この方はあまり普及しなかった。
 私の一番好きな坂は谷中に在って寺と墓地の間をひっそり曲がって下る、車の通 れない「蛍坂」だ。

 

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 祖父と祖母
 

 祖父は私が六歳の時死に、晩年は私を猫の様に可愛がってくれたので私が直接祖父にもった印象と後年、祖父について聞いた話とでは大そう違う。
 一人膳で酒のついた夕食が祖父に出て(他の者はちゃぶ台)、終わると私は祖父のところに行く。右手に箸をもった加藤清正、左手の虎とがチャンチャン戦う話、落語では全く笑ったことのない男が笑い茸の汁を飲まされ「ちっともおかしくない」を繰返しながら次第に笑ってしまう小話などなど、毎晩種を違えて私をたのしませてくれた。
 我家はどういう訳か一代替りで働く人間が出る。祖父の父(学者でもあった)も私の父、利市(婿)もそうで、「私は遊ぶ順番だ」と勝手に決めて下谷や葭町、古河の花柳界に出入りし、古河には妾も居て、一軒芸者家を持たせていた。夜はそちらに泊まる方が多かった。
 東京でも遊び人で十五世羽左衛門の可江会に入り、芸人とのつきあいも多かった。
 ある晩、寄席で三遊亭円朝の来るのが遅れた時、「円朝師匠の来る間に、つなぎに一席」と高座に上がって大拍手をうけ、遅れて来た円朝から煙草入れを貰ったこともあった。
 祖母は私が十歳の時に死んだが、格別の印象はない。いつも暗い部屋に静かに坐って縫物などしていた。何時もきちんと座り、八十歳をすぎてからはじめて足をなげ出し膝を手でこするのを見たと母がいっていた。祖母が四十歳代の時、家で宴会があって、祖父は祖母に常磐津の弾き語りを強いた。娘時代その名手だったことを知っていたからである。祖母は黙って嫁入り道具の三味線を出し林中ばりの「乗合船」を弾き語って一座を感心させた。祖母が嫁に来て常磐津を語ったのは、その一回だけだった。
 古河出身の小説家、友人の永井路子さんから古河には前にも若杉鳥子という小説家が居たそうで、調べてくれとの依頼をうけた。
 すばらしい美人で、祖父の芸者家の養女だった。古河に宮様が見えられた時、接待に出て目にとまり、「どんな家の娘さん?」と聞かれ、「卑しい生まれの者でございます」といった話が残って居る。家業を嫌って東京に出、某新聞社に入り、小説を書き、徳田秋声や長塚節などの目にもとまった。大恋愛のすえ、板倉子爵の弟と結婚、式には我家の人達もよばれた。「歸郷」などという著書も残っているが、読んでみると稚拙なものだ。
 鳥子のことを調べていると、廻りはみな妙な態度だった。彼女は祖父が芸者に生ませた子で、皆が知っていて、私だけが知らないことだったからだろう。
 鳥子の一人娘黎ちゃんもきれいな少女で、一度鳥子が我家に連れて来た時、私が小学校六年生、少女が三年生位だったろうか。椅子にかけて、足をぶらんぶらんさせているのを見て、これが東京の少女なのだなあと思った。話し掛けたかったが、何故か出来なかった。
 六歳の時、塩原の避暑地先から「おぢいさんがもういけません」と呼び戻された。祖父はたらいに氷柱を立てた部屋に寝ていて、「太閤様でも出来なかったぜいたくだ」と父に手を合わせ感謝し、そして死んだ。
 祖父は自分で勝手に戒名をつけ、「天弘院江古道楽居士」としていた。天保、弘化のまたがる年に江戸で生れ、古河で死に一生道楽をしたという意味である。父は養子だから道楽という文字は使えない。幸い祖父の愛した徳利に、「楽しみはこの中にあり雪月花」というのがある。それにちなみ祖父の戒名を「天弘院江古三楽居士」としたが、すぐ坊主がそれに宝誉などというつまらぬ言葉に入れ替えて改悪してしまった。

 

 

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 外神田五軒町
 

 私の母方の祖母の生家は外神田五軒町の会席茶屋福田家で、祖母は万延年間、祖父は天保年間に小石川伝通院前で生まれたから二人共或程度江戸時代の空気を吸った夫婦である。後年祖父は尾上松之助のチャンバラ映画を見て「活動ではすぐ刀を抜いて切りあうが、自分は江戸に住んでいてとうとう侍が刀を抜いて争うのは見たことがなかった」と話した。
 会席茶屋の福田家は江戸時代から大正末期まで続いた。よく大伯母が店にチンチョウさん(穂積陳重東大教授)始め箕作佳吉、重野安繹、外山正一などの大学者、依田学海、饗庭篁村などの文人が客として来ていた話をした。近くのお玉ヶ池の千葉周作も客だったらしい。大正期には新国劇の沢田正二郎が出入りし、よく舞台稽古に使っていた。
 福田家に伝えられたいろいろの話が残っている。福田家は五軒町に家作の長屋を持っていた。その一軒に河内山宗俊の妾がいた。宗俊は城から下ると毎晩のようにその妾のところに来ていた。妾は若くて小柄だが、ひどく伝法な女だった。宗俊は青々と剃った頭、濃い髭あと、凄味のある顔立だった。湯帷子は「大小髑髏くづし」の柄がお気に入りで、帯は博多の一本独鈷、よく縁台で涼んでいたそうだ。米屋がよく変った。つまらないところにけちをつけ米をまきあげたからだ。
 河内山は死罪になり、妾はどこかに行ってしまった。それから三十年後、同じその長屋に上州から来た夫婦者が入った。亭主は病気もちで神奈川の施療院のヘボン先生のところまで通っていた。そしてそれから何年後、そのかみさんが方が亭主や他の男たちを殺し、明治九年につかまって死刑になった、所謂毒婦「高橋お伝」で、連日新聞はその記事でもちきりになり、長屋を大さわぎだったそうだ。

 

 

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 山中さん
 

 戦争末期のことである。父の所有していた空き家の製絲工場に留守番の山中という七十歳ぐらいのぢいさんが、工場づとめの息子夫婦と住んでいた。
 山中さんは小遣銭が欲しいのと、私の家で働いていた若い連中が一人のこらず兵隊にとられたのと両方の事情から昼間家に働きに来た。働くといっても格別の用もない。しかし、時には晩飯を食べて帰ることもあった。
 ある夕方、山中さんが急にもぞもぞ始めた。母が「どうしたの」と訊くと、山中さんは「今朝起きた時シャツに片袖通すのを忘れていやした」と答えた。
 父が山中さんを供につれて町に出た時、向こうから三十歳ぐらいの女性が来て、立ち止り深々と礼をした。山中さんは「はい、こんにちや」と大声を出した。父も軽く頭をさげ、行き違ってから「どこのお人かな」山中さんは一呼吸してから「ありゃ、私んちの嫁でがした」といった。
 店をやめて代官町に越して来た晩秋の夜、母が縫物をし山中さんは煙管でたばこを喫っていた。とつぜんさらさらと雨音がする。母はお十夜で菩提寺の正定寺に行っている父に傘をもって行く様山中さんに頼んだ。併し、それは雨音ではなく、風で落葉が一せいに散る音だった。山中さんは本堂の前で「旦那、傘を持って来やした」と大声で呼ばはる。父が驚いて本堂の縁まで出ると?々たる月光の中、傘をかついだ山中さんが居た。

 

 

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 K・Tの話
 

慶應の予科に入って友人になったK・Tといふ四谷の瀬戸物屋の伜で変った男がゐた。
入学してすぐ「慶應一の美男子、K・T」という名刺を作り、友人や喫茶店の女性にばらまいた。「貰った人間は必ず俺の顔を見るぜ」と得意になってゐた。ちなみに彼の顔は後年の俳優植木等にちょっと似てゐて、クラスでつくった美男子番付では四十何人中十位ぐらゐだったと思ふ。
七月の最初の学期末試験の時、彼は明礬を水で薄めた液でペンの答案を書き、終りに万年筆で「焙ると出るよ」と記し、すべての先生に答案を焙らせた。点数は結構よかったさうだ。
フランス語の授業の時、原文はつかへつかへ読み訳文の方は禁じられたアンチョコを挾んであるのをすらすらと読んだ。W先生が怪んでさっと近寄り教科書を覗きこむと彼はぱっと教科書を左胸につけ歌舞伎役者口調で「勧進帳だあ」といってW先生を苦笑させた。
赤い下着をつけてゐて得意になって人に見せた。本科に入って夏、カンカン帽に慶應の記章をつけて登校し有名になった。とにかく目につく。塾監局が取り上げるとまた別のカンカン帽を被って来た。当時カンカン帽は五十銭(昭和六十三年価格千円)位だった。
銀座で四、五人の友達と歩いてゐる時、突然彼は「この歩道に五分間寝てゐたらハンバーグおごるか」ときき、みんな面白がって「よからう」といったら、とたんに寝ころがって腕時計を見てゐる。友人は恥しがって遠くの方から眺めてゐる。老婦人がよって心配さうに「どうされました?御気分が悪いのですか」と覗きこむと彼は「いえ何ともありません。有難うございます。このまゝにして置いて下さい」といひ、五分間たったら「モナミ、モナミ、ハンバーグ」ととび起き友人の方に走って来た。
卒業して北海道炭砿汽船に入社した。入社してすぐ現場の船長がやって来、彼は昼の接待役を命ぜられた。課長が「せいぜい馳走してやってくれよ」といったので会社ゆきつけの柳橋の待合へ連れてゆき芸者を呼んだ。請求書を持って会計に行ったら会計は驚いて課長のところにとんで行き、課長は副部長のところにとんで行き渋々金を出しながらいった「君はもう接待はするな」
其の後彼はすぐ会社をやめた。やめたあとの彼とはクラスが違ふので逢っていない。

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 京の宿(1)
 

京都の五条坂の途中に「佐分利」といふ小さな宿がある。京都独特の一見さんは泊めず朝食以外は仕出し屋から料理をとる三部屋だけの宿である。
宿の女主人は祇園の福葉といふ妓がパトロンを得て妓をやめ、始めたもので、パトロンの赤ちゃんも居た。女主人は誠に合理的な考えの持主で、舞妓の時から人生に目標を持ち、その通り生きて来たと話した。つまり、何時パトロンを持ち、妓をやめ、宿を買ってもらひ、何時子供を生む、これすべて計画的な進行だとうふ。何となく味気なかった。
夕方、玄関に面した応接間で京都新聞を読んでいたら、一人だけの女中が何か袋を持って帰って来た。「今日の二階のお泊りはFさんとあなた様です。Fさんは酒をのまず、アンパンが好きなので、石段下のおいしいいパン屋さんからアンパンを買って来ました」と話した。
夜になった。春雨がシトシト降って来たので、先斗町のゆきつけの店に行かず十時頃床に入った。枕元に一月に死んだ母の位牌を置き仏説阿弥陀経を誦しはじめた。明日は知恩院に行き一人だけで母の供養をしようと思ったのである。
お経を途中まで読んだら突然スタンドの明りが消えた。停電か或はスタンドの球が切れたのか判らなかったので、襖をあけて廊下に出て見た。家中真っ暗になり停電と判った。とたんに廊下の明りがついた。隣りのFの部屋も停電かどうか判らず、連れの女性が廊下に出てゐて、私と顔を合せた。浅黄の長襦袢で明らかに芸妓と判る女性だった。女性は驚いて身を翻し、Fの部屋にとびこんだ。
部屋に戻るとスタンドの明りは無論ついてゐた。私はまた仏説阿弥陀経を読み出す。隣は俗界の寵児が美しい女人を抱いて寝ている。外は春雨がシトシト降ってゐる。色即是空の感だった。
あとで聞くと、彼女はその方面では有名で、Hとも関係あり、FとFはお互い同士義兄弟のことを知らなかったさうだ。

 

 

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 挨拶・T君結婚式 その場でつくる
 

先ほど会場の受付で名札を受取って居りますと、廊下で煙草をすひ、来賓の一人と話をしてゐた新郎のT君が煙草をもみけし血相を変へてとんで来て、廊下のすみに私を拉致し声をひそめて、「今日、お前がスピーチをするさうだが、たのむ、俺のいふ通りの事をいって呉れ。礼は望みにまかせる」。「何といふのだ」、「俺の人物の大きいこと。人格清潔なこと。常識豊かなこと。この三つだ。あとの事は何もいふな」
そこで商取引が成立致し、私は用意してきた原稿をすてました。これには深い訳がありまして、彼は結婚披露宴破りとして、我々の披露宴に現れてはスピーチでぶちこわすのが常でありました。私の時は、私の母があとで悔し泣きに泣きました。Y君の時はこともあらうに彼の過去の女性関係の話を始め、となりで私が彼の足を蹴って注意すると、彼は私の足を蹴返して話をつづけたのであります。この復讐が本日行はれるのではないかと惧れ、彼は私を買収せんとしたのであります。
私は商人でありますので快く商取引に応じ彼のいふ通りの事をこれより申します。第一、彼の人物の大きいこと。これは十二文甲高の彼の足に比例して大きいので、後刻新郎新婦が出口で皆様をお送りする時お辞儀のついでに彼の足を見てお確め下さい。第二は彼の人格の清潔なこと。毎度足の話になり恐縮ですが、これは風呂嫌ひな彼の足の反比例でありまして、夏、彼の足は特に不潔でプンプンと匂ふ。彼の精神はこれに反比例して清潔とお考へ下さい。次に彼の常識の豊かなこと。彼は愛読書たる低級週刊誌により極めて広い常識を養って参りました。しかし、一歩つっこんだ話は是非さけて下さい。そして同じ話題で三分以上話さないで下さい。彼は必ずボロを出します。これが刀をふりかぶって切り下さぬ武士の情であります。
今日、花嫁を拝見しますと誠にお綺麗、その上才気のひらめきも感ぜられ、本日アメリカのライフ社の撮影隊が「日本の結婚式・披露宴特集」として見えられたのにふさわしい式であり披露であります。T君がこんな理想的な妻を得られたことにつき、一つの諺をもって挨拶の終りと致します。その諺は「はきだめに…」、これは失礼、一寸間違へました。三十八歳の彼にとり「残りものに福」であります。
(このあと数百人の来賓中の主賓や、その他多くの方々が私の席に来てこんな面白いスピーチははじめてだと喜んでくれた。もっとも、新郎は苦虫をかみつぶしてゐた)

 

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 名刺 OHANASHI
 

慶應の本科の時、名刺が欲しくなって銀座の鳩居堂に百枚たのんだ。名刺が出来てポケットに入れ新橋の方に歩いて行くと、トリコロールの前で級友のYに逢ひ早速名刺を一枚渡し、あとは机の中に入れたままにして置いた。
築地の水上警察署から電話があった。簡単に身分、学校名、父の職業を聞いてから「あんたの名刺を持った若い女の水死体があがった。身分が判らないから来てくれ」とのことだ。早速一枚しか使っていない事情を話した。それからYと一緒に水上警察に伺った。途中、Yに訊くと、名刺を貰ったその足で芝浦でアイスホッケーの試合を見に行った。隣りの女性と話し名前をきかれたのでお前の名刺を渡したとのことだった。
警察で一通りの事情をきかれYはその女は中野に住む薬剤師としかわからない。名前は知らないといった。一応本人かどうか見てくれと確認を求められ地下室へ行った。私も後に続いた。
地下室といっても明るい。後ろが川面だからだ。コンクリートの一室に死骸はアンペラをかぶってゐた。アンペラをめくって顔を見せられたがYはさうとも、さうでないともいへない。唯八重歯が目立ったといふ。それではと警察が死体の口の中に指を入れ、グッと開けた。歯が一本もない。
だからこれはおはなしである。(途中までは事実)

 

 

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 おいちい
 

松竹の常務の山内さんから新しく作りなほされた新橋演舞場の切符を頂戴した。勘三郎の「道玄」(盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめのかがとび))だった。丁度そこへ下谷の画商が小笹に包んだ鮨を土産に訪ねて来たので、その鮨と茶を持って出かけた。私は幕間に「加賀鳶」と「「盲長屋」の説明を聞かせた。次の幕間は「二十五分」と点燈された。妻はトイレに立ち私は鮨を食べ出した。となり組は海苔巻といなり寿司、うしろの連中はサンドイッチだった。妻はトイレより戻り「どれがおいしいですか」ときく。「小鯛がおいちい」といったら、となりの客はちょっとギクッとし、妻の顔は赤くなった。
劇場から帰ると早速妻が噛みついて来た。「今日ぐらゐ辱しい思ひをしたことがない。何もあんなところで幼児語を使はなくともいい。隣りの人も驚いたらしいわ。まるで精薄児と一緒に居たみたい。もうあなたとは一生外出しません」といふ。「たかが(し)と(ち)と一字違っただけでこれから二十年、三十年一緒の夫婦が共に外出できないのは大問題だ」といふと「いえ、今度ばかりぢゃありません。あなたは何時か百円玉を落した時、片足を大きく後ろに引いて捜した。デパートのエスカレーターの上りに後ろ向きに乗ったこともある」「あれは演劇の一種の型で大阪ニワカでもコメディ・フランセーズでもあの形で物を捜す。エスカレーターで後ろ向きに乗ったのは、あとから私を見て下さいといはんばかりのゴテゴテ女がきたからその供養のためだ。下りで後ろを見るのはショートスカートの中を覗くやうでよろしくないが上りはかまはない」そこで論戦になった。その途中で大学生の娘が帰って来た。「何を爭っているの」「ちょっと、ちょっと聞いてよ」「いや俺のいふことも聞け」一部始終を聞いた娘はただ一言「天下泰平だわ」といって自分の部屋に入ってしまった。

 

 

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 螺旋階段
 

女房が娘を連れ泊りがけで田舎の家に行った。待望の一人暮しの三日間、冷房をつけカーテンをしめアダムと同じ姿で過した。一番始めに感じたのは歩く時男性自身が邪魔になることだった。ブリーフは単なる羞恥心のためばかりでなく実用性のためでもあることが判った。
ゆっくり歩くと男性自身もゆっくり前後運動をする。速く歩くと速い前後運動になる。
その内、或重大なる発見をした。階段を上がったり下りたりすると前後運動が左右運動に変るといふことだ。
女房が帰って来たので早速報告した。彼女曰く「うちが螺旋階段だったら円運動ね」。

 

 

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 蟇
 

代官町の我家の庭には蟇もいるし、大きな蛇も居る。
一度うす暗がりの夕方、自転車で帰って来た時、誤って蟇をひいてしまった。蟇は胃や何やら内臓を口から外に出したまま後ずさりで笹の中に入ってしまった。なんとも気持悪かった。
そのうち蟇の親子が毎夕暗くなってから芝生を横切ることを発見した。片親が後に一匹の子を従へ散歩の習慣があるらしい。
或日、芝刈りをした。夕刻やはり蟇の親子が現れた。刈りたての芝は腹にチクチクしてどうも具合が悪いらしい。どうするか興味を持って見てゐた。ちょっと逡巡してから蟇の親は手足をつっぱって高歩みの姿勢で芝生をわたり出した。子蟇が見習ったのはいふまでもない。
客と対談してゐた。ふと気がつくと芝生のへりに一匹の大蟇が居る。客に「蟇が出て来ました」といふと客は庭を見たが床の間を背にした座から蟇は見えない。「どこでしょう」といふので指さしたら、客は坐ったまま両手をついて身を乗りだした。その形は庭の蟇そっくりで可笑しかったが客にそのことはいはなかった。

 

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 もぐら
 

日本のもぐらは、大和もぐら、あずまもぐら、神戸もぐら、佐渡もぐらなどがある。鼠と違って海を渡らないので純粋性があり、中国、韓国のもぐらとは違ふ。同じ様でも鼠は船のリギンを伝はって、シンガポール、ボンベイ、マルセーユ、ニューヨーク、何処へでも行ける。
神戸もぐらは体長十六糎、あずまもぐらは体長十四糎、次第にテリトリーを神戸もぐらはひろげて、かつては関ヶ原だったのが、二百年後木曽川まであずまもぐらを追って進出した。もぐらが川を越えるのは上流へ上流へと岸をさかのぼり、川幅がぐんと狭くなってから川底をくぐる。一家族のテリトリーは百米四方ぐらいときいてゐる。
日本のもぐらは北海道には住んでゐない。寒いからではない。緯度の高い中国の東北地方にも住んでゐる。津軽海峡を越せないからだ。
もぐらは冬眠し、関東地方で四月十日ごろから活動する。大そう敏感で、上で人の足音がすると動かない。もぐらをとるには暁方、そっとしゃがんでゐて、もぐらが土をもち上げて動き出した時、手袋の手を土中につっこんでつかまへる。つかまへたもぐらは、めす、おす(鑑別がむづかしい)ペアにして二組づつ土の入ったドラム罐に入れる。えさのみみずも用意する。
そこで軽トラックにドラム罐を二つづつをのせ、北海道に渡る。渡島半島の原野(ゴルフ場、畑、牧場は不可)に八匹をはなす。(もぐらの繁殖は鼠算だから、計画では五百年で北海道の半分位までテリトリーがひろげられる予定だ)。そして、「北海道土竜上陸地」の石碑を立てる。
農業に大切なみみずを主食とし、野菜の根を齧るもぐらは害獣といふ説がある。一方「エホバは善(よし)と見給うた」生物である。また、もぐらの糞はすばらしい肥料といふ説もある。アフリカの田舎では貴重なタンパク源になっているとも聞く。
一生の中後生に残ることを何もしなかった自分は、北海道にもぐらをエミグラシオンしたことで自己満足するつもりだ。

 

 

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 いぢめ
 

小学校でも軍隊でもよくいぢめられた。小学校の時は金持で級長だったので悪童にひどくやっかまれた。「花、ハーナ、ハーナ」といふ。この「ハーナ」とは先生が自分をひいき(花)してゐるという意味だ。「花」の字をカタカナに分解するとヒイキになる。
皆が紺絣の和服の時、父の買って来た洋服で学校に行くと悪童がよって来て「これネルかサージか」と洋服をつまむふりをして腕をつねった。眼に涙がうかんだ。翌日から紺絣にもどった。
小学三、四年の時は悪童だったが、五、六年の時は級長になりたくてしようがない二番のやつが仲間をあつめて陰険にいぢめた。
反対に貧乏で成績が悪いSもいぢめられた。本屋の路地奥のジメジメした長屋に住んでゐた。便所はそまつな女便所だけだった。他の家はみんな男便所、女便所とあったので「ビンボ、ビンボ、穴一つ」とからかって泣かしてゐた。
軍隊の学校では文学好きで根本的に自由主義者であることを見抜かれ、右翼的硬派の学生が徒党を組んでいぢめた。
最近「いぢめ」が問題になってゐるが、昔もあったのだ。

 

 

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 食堂
 

(一)
六本木の「カロリー」に入って、ハンバーグ・ランチをたのんだ。テーブルに一人の客は私だけで、どの席も二人から四人のグループだ。しばらくして如何にも新劇でもやりさうな二十歳後半の男女が入って来た。見廻しても空席がない。
男がそばで「ないや、ここに坐らう」と私の横の席に着かうとした。言下に女が「いやよ、話みんな聞かれちゃうじゃない」と人差指で私をさした。憤慨したが此所は冷静に女の背中をつついた。ちなみに女性の身体で触れてよいのは背中とひじから上の腕だけだ。女は冷然と私を見下した。「君達のくだらない話は聞かないから、此所に坐りなさい」女は無言で男の腕をとり「いこいこ」と出て行った。禅問答に負けた感じである。
不愉快だったので、来る人ごとに此の話をした。友人はみんな言う。「それはお前が悪い。お前位何でも聞いてやらうと好奇心に満ちた顔の男は居ない」。
(二)
歌舞伎座の前の「弁松」に入って、此所の有名な「幕の内弁当」をたのんだ。上はお菜(さやえんどう・里芋の煮付・つとぶ・玉子焼き・えび・焼肴等)。下は飯(俵状の飯にごまがふってあり、紫蘇がついてゐる)。
たべていたら父親と息子と入って来た。父親は地方から来たらしく、息子はシャツにW(早稲田のマーク)のバッヂ。四人掛けの私の席に着いた。「失礼します」、「よろしいですか」、「お邪魔します」の一言もない。そして親爺が訊いた。「おめえ何にする」。息子「おれ、これだ」といって私の弁当の横腹を指でたたいた。これも憤慨のたねだった。
食事が終って一言なかるべからず、指でたたいたのは失礼だと文句をつけた。二人とも唖然として口を開いたままだった。息子は喧嘩したら負けさうな位大きい奴だったので急いで外に出た。
(三)
高島屋の一般食堂で二色弁当をたべた。斜め半分が炒り玉子、あと半分は鳥そぼろ、境界にグリーンピース、紅生姜が一寸ついてゐる。
食べてゐる時、私の正面に中年の商人風の男が一寸頭を下げて席につき、天丼をたのみ、すぐ運ばれてきた。男は一口たべて、ゴホッと噎せて飯粒をはねとばした。丁度半分たべた二色弁当の上にも散らかった。
男は直立して「これはすみません。大変失礼いたしました。とんだ事を致しました。お宥し下さい」とあやまったが、弁当を弁償するとはいはない。此の時、最初に心に浮んだのは河崎利明たるもの如何なる態度をとるべきかであった。「いやいや御心配なく。結構ですから」と口から出かかったが、しかし、これは何となくしたくない。「けしからんじゃないですか、別の弁当をとって下さい」といふべきか。これも私らしくない。
結局、中途半端な顔をつくり、「いやいや」とか何とかモグモグいって、弁当のふたをして立ってしまった。

 

 

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 足の裏の劇
 

足の裏の冩真が出てゐる水虫の広告を見てふと思ひ着いた。足の裏で劇をすることである。さっそく道具をつくり脚本を書いた。
台の上に額縁をのせ、両側の唐紙をしめる。額の中に絵はない。背景には、一枚の布を上だけとめて下ろす。背景はモンマルトルの丘で、所はサクレクール寺院のそばだ。
一人の画家が登場する。ベンチにかけ独白ではじまる。手製のベレー帽、目はピンポン玉を二つに切って、真中に碧い眼を入れ、両面テープでとめる。毛糸でヒゲをつくる。男の小道具はそれだけだ。
やがて女性が登場、同じベンチに腰かけ、女が話しかける。黄色い毛糸の髪、紙を切りぬいた睫の長い目と赤い唇、これも両面テープでとめる。
粋な会話がすすんで最後は足の裏と裏を合せ、熱烈なキスで終る。
御子様用に王子、王女、、魔法使ひが出るのも作った。王子がひっこんで急いで両面テープをはがし、また魔法使ひにつけて、出るのに八秒しか掛らない。足の裏を上向きでゆすると喜びの表情になり、足の指を曲げて下を向けると悲しみになる。色々やってみた。
三つ四つ話をつくってみた。好評だったが先に自分が飽きてしまった。週刊朝日から取材の話もあったが、単なるアイディアであり、誰にも出来ることで芸じゃないからと断った。其の後、水虫の広告にこのアイディアは盗用された。

 

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 ポケット
 

胆石の手術で赤坂の前田病院に入ってゐた。後厄の年である。院長は有名な前田博士で八十歳だ。婿博士を助手に執刀された。週末には甲虫のワーゲンで国立(くにたち)の別荘に行かれる。別荘は林の中にある。鋸で雑木林の木を切って薪をつくり、その薪で炊事をし風呂を焚かれ、独居生活を娯しむといふ。
先生とはすぐ親しくなった。退院まで四十日はかかる。そのうち下痢をした。「先生、今朝下痢をしました」といったら、「それはいけませんな。苺ジャムぐらいですか」、「お丼にかゆをよそって箸を立てると箸がゆっくり倒れるくらいです」と答へると、「よく状況は判るが、君、たべもので形容するのはきたないよ」と矛盾したことをいはれた。
無聊(りょう)なので変なことを考へついた。人間の体にポケットはつかないか、といふことで、早速先生にたづねたら「人間の体は拒絶反応があるから縫合も貼着もむづかしい。併し、皮膚をつまんで縫合するとつまんだ部分が角質化する。それには別の動物の皮でもつくよ」といはれる。偶々、日本皮革の人が見舞に来たので話したら、「それには牛皮、それも胎児の皮が最適で、薄くて丈夫です。なんなら三十糎四方位お持ちしましょうか」
先生に話したら、「それはいいねぇ、どこにつけるか研究して置きなさい。僕も人間の身体にポケットをつけるのは始めてだから楽しいよ」と本気か冗談か判らない口調でいはれた。
そこで考へた。胸では夏、人に見られることが多いし、尻では物を入れて坐ったとき邪魔だ。腹の真中ではカンガルーになる。結局へそのななめ左下に決めた。ところがいろいろ障碍が出た。
先づ女房が「嫁入り前の娘を持ってゐてカンガルー人間になってどうなるのですか。あなたの事だから必ずほこらしげに話し見せびらかすはづです。週刊誌に知れたらどうなると思ひます?日本中の嗤ひものになる」といひ出した。また、ある女好きの友人は自分の身になって考へて「そのポケットは避妊具を入れるに絶好だ。しかし、浮気の相手がポケットを見てゲラゲラ笑ひ出したら絶対ムードをこはす。やめておけ」といふ。
老先生は相変らず本気か冗談か「どうです場所はきまりましたか。やりましょうや」といはれる。結局やめた。

 

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 冗談居
 

私の青山の家は昭和三十五年に建てた木造二階建で、屋根のアルミは一年で艶を失ひくすぶった。その後、廻りに新しい鉄筋コンクリート造の住宅、小マンションが多く建てかへられた。
私の家の正面は青学会館といふ青山学院で経営する結婚式場でその二階以上から我家をながめることはなかった。ところが同郷の友人(国立病院産婦人科の部長)の長女が結婚し、青学会館の三階で披露宴を行ふことになり、私達夫婦も招かれた。
八十歳をすぎた友人の母も出席した。私達夫婦が三階から初めて我家を見下していると、彼女が傍に寄って来て「お住ひこの御近所なんですってねぇ、どのお家(うち)?」と訊く。「あれですよ」と目の前の自宅を指さしたら、「あーら、御冗談、あれでしょ」と別の立派な鉄筋の家を指さす。「いや、ほんとにこの家ですよ」と口ごもって返事をすると、「まー、まあ御冗談、じゃ、そのお家(うち)」と別の白タイルの家を指す。母君には私の故郷の三千坪の庭と、何人かの老大工が二年半がかりで建てた家が頭にあるらしい。しかし、一寸くさった。
家に帰ると、さっそく妻が「あらあらはずかしい。冗談などといはれて」といふから、「これが私の妻です、あーら御冗談といはれるのとどっちが良い?」とからかった。そしたら、しばらく考へて「まだそれより家の方が好いわ」と真顔で答える。そばで聞いてゐた娘は、「そういふ時は夫に比べて妻が良すぎて、いはれることもあるのよ」

 

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 ある論争
 

夏の昼下り、セールスマンは出払って、私(専務)と女子事務員四人が事務所で仕事をしていた(地方都市)。硝子戸が開いて、冷房の土間に二人の学生風の男が入って来た。
「この街の地図をお持ちではないでしょうか。あったら、一寸見せていただけませんか」といふ。「あるよ。大雑把なものもあれば、一軒一軒名前の入ってゐるものもある」「それがいいです。拝見させて下さい」「靴を脱いで、その机を使いなさい」と地図を貸してやった。二人ヒソヒソ話しながら永いこと地図を見てゐる。手伝ってやらうと思って、そばに寄り、「君たち何を調べてゐるの」一人が鎌首をもたげた。「お宅は使用目的を明確にしなければ地図を貸与してくれないのですか」。カチンと来た。
「君、人の家に入って来て、その言ひ方は何だ失礼じゃないか」「何が失礼ですか。私は交番で人の家をたづねる時、いちいちお巡りに訪問目的を説明しませんがねぇ」「交番でお巡りにたづねるのと、人の家で地図を借りるのは、おのづから違ふと思ふがねぇ」「何処が違ふのですか。はっきり説明して下さいよ」。もう一人が割り込んで来た。「一寸待て。我々は単に質問しただけだ。説明しなければ地図を貸してくれんのか、くれるのか質問しただけである。若し『貸す』といへば、そのまま借りて見てゐるつもりだし、『貸さぬ』といへば、返すつもりだ。然るに、あんたは失礼という言葉を使った。これは礼儀を失するといふ人を批難した言葉である。単に質問した人間に批難の言葉を吐いた。これを先づ陳謝してもらはうぢゃないか」
論戦十五分、心では納得しないが、論争の上で撃破され、完全に敗北した。とても大学総長をつるしあげる論法にはかなはない。
とに角、家宅侵入罪をもちだし退却してもらった。「お世話になりましたあ」と意気揚々と引きあげやがった。四、五日気分が快くなかった。

 

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 アラブの女性とおしゃれ

 

アラブの世界が好きで回教徒を多く一人旅する。回教の戒律で女性は多く顔を覆い、目だけ出しているか或は目もヴェールでかくしている。そこでは女性の本能ともいえる「おしゃれ」は抹殺されているように見える。然し子細に観察すると抑圧された中で、女性の「おしゃれ」がキラキラ光るのを見かけるチャンスがある。そして普段抑えつけられている故にかえってその「おしゃれ」が効果的に現われる。
アラブ首長国連邦のシャルジャーの空港で黒衣の若い女性が数人背筋を伸ばして歩いているのを見た。黒衣の下からチラチラする数足の純白のハイヒールが実に印象的だった。
北イエメンの首都サヌアでは女性は殆んどインディゴー・ブルーと赤の模様の長い打掛けラ・シタラで身体をくるみ赤い大きな花柄の別の布の中から外をうかがっている。ラ・シタラはその女性の最後に身にまとったものが彼女の棺桶を覆う布となる。大きな布なので道を歩きながら身づくろいして布の位置をなおす。その動作が人により異なり若い女性がさっと長衣をひるがえす動作は実に優雅である。
モロッコのアトラス山脈を超えた南の村々を中心としてベルベルの女性は黒衣をまとうが必ず裾に花柄がつく。そしてその花柄は村々により異なる。大きな市が立つと其所に集る女性達は旅人には分からないがお互同士その花柄でどの村の女性かを識別する。モロッコでは口覆い(フータ)の上に目だけ輝かしている。そして実に念入りに目の化粧をする。女性の美が目の一点に終結しすれ違う時、忘れがたいような目に遭遇することがある。アーモンドの花の咲く頃、ベルベルの村々は祭になる。タフラウトの南のオアシスの部落である家に招かれた。客が男性であればその部屋に女性は顔を出さない。戸口からそっと茶の道具を部屋の入口に置くだけである。そして主人が自慢そうに戸棚をあけて見せてくれた。そこには数十本の金の刺しゅうをしたベルトが吊されてあった。女性が黒衣の他に身にまとう衣類はベルトだけ。そしてそれに「おしゃれ」が凝縮したような感じだった。
パキスタンのペシャワールでもトルコのイスタンブールでも腕輪と首飾りのバザールが細い道の両側に金色さん然として延々と続く。
チュニジアの南の村々を歩いていた。オアシスの或る部落で水汲み場の石に腰を下して休んでいたら、一人で水を汲みに来た女が素焼の水瓶を頭の上にのせて私から五メートル位はなれて通りすぎた。そして丁度私の横に来た時、私の方をふり向いて数秒間、顔を覆った黒衣を開き笑顔を見せ、サッと顔を覆い横をむいて歩き去った。十七才位の少女だった。そして十分に自分の顔の美しさを自覚しての動作だった。美貌を他人に見せられない抑圧が、突然外国人に対してとかれたのか。私は茫然として白い残像を追っていた。

 

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 モロッコの一大学生
 

娘とモロッコを二十七日間旅をした。南の砂漠地帯のフェズ、ムーレイ・イドリスを経て最後に首都ラバトに来たら一日予定が余った。そこでカサブランカに行かうと思った。汽車は一日二本で無理、安宿ばかり泊り予算も余ってゐたからタクシー乗場で交渉した。なんと三十粁のところ、ごろつきのような運転手に「十万円でどうだ」とふっかけられ、驚いてやめたらあとをつけて来て「八万円、五万円、三万円」と値を下げ出した。
すると横から爽かな顔をした大学生が現れ、「タクシーはやめなさい。僕もカサブランカに行く。バスなら九十円ですよ」と少し離れたバスの停留所に誘導してくれ、一緒にバスに乗りこんだ。三人掛けで一番窓側が彼中央が私で、通路側が娘だった。
私は娘にモロッコ共産党党首でパリに亡命したベン・バルカの話をした。バルカは金大中のようにモロッコの秘密警察に誘拐され船でフランスからモロッコに連れ戻された。唯日本の違ふのは、ドゴールが激怒し大使をひきあげ、外交関係を断絶したことだ。日本語で話してゐたが、ベン・バルカ、ベン・バルカといふ言葉が彼の耳に入った。その学生がフランス語でそっといた。「ベン・バルカの話はやめなさい。どこに秘密警察がいるか判らない」。そして小声で判りやすいフランス語で次のような話をしてくれた。
「マホメットの子孫と偽称するハッサン二世、王家一族はあらゆる経済を独占してゐる。茶もテレビも王室が握ってゐる。王家専門の広大な狩場がある。王女のために大きな海水浴場もある。王宮はモロッコ全土に三十ヶ所もある。そして宗教で国民を麻痺させてゐる。町中に秘密警察がいっぱいゐて、家庭に国王の写真を飾っていない家の人、一寸した反政府言動の人はすぐ刑務所に入れられる。今、二十万人の政治犯・反政府活動家はどこの刑務所とも知らず幽閉されてゐる。ベン・バルカもそうだ。
学生の中にもクラスに二人エスピヨン(スパイ)が居る。彼等は失業率二十五%のモロッコで将来の官吏の職を約束されてスパイになってゐる。クラスに二人だがお互同士スパイである事は知らない。そして二人が共通して指摘した過激的は学生、やや過激的な学生も刑務所に入れられる。そのため国民も学生も骨抜になり、軍独裁を許してゐる。この実状をどうかあなたから世界に知らせてくれ。僕はカサブランカ大学生だが名はいへない。たのむ」といい残して大学前で下りて行った。実にすがすがしい学生だった。
私は一言ひとこと娘に翻訳した。娘は、「日本の明治維新の志士のやうだ」といった。

 

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 何だか変な実話
 

近く定年退職するサラリーマンが社宅を出て住むべき住宅の用地として、近郊の農家からその所有する耕地二ヘクタールのうち三アールを約四百萬円で売ってもらった。前借りした退職金の全部がこれに充当され、彼はそこに家を建て移り住んだ。彼の二人の息子のうち長男が将来その家に住むとしても次男は三十年後会社を退職する時又土地を買わねばならない。その頃は退職金の額も増えているが土地の価格も上っていよう。月給で生活した残りを建築資金に積立てたとしても三アールの土地を買うには又退職金の全部を出さねばならぬであろう。かくして彼の子孫がサラリーマンである限り、三十年サイクルで退職金でもってその農家の所有農地を全部買うのに何年かかるかを計算したところ何と二千年かかることを知って暗然とした。
一方次男の独立資金に三アールの土地を売ったその農家の夫婦は長男と残った土地一・九七ヘクタールの土地に米を作り野菜を作り一年百三十万円の売上げだが、肥料代農薬代と農機具の年賦などを引くと月六万円の生活費を残すのがやっとであった。そして自分の売った土地に家を建てたサラリーマンが自分たちの三倍の収入で衣、食、娯楽の面で自分たちよりはるかに豊かな生活をしていてるのを横目で見ながら額に汗して耕作している。





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 乞食の話
 

私が幼少のころ住んで居た茨城の町にいろいろの乞食が居た。
朝、寝床の中で目が覚めると、遠くからこんな声が聞えてくる。「俺はいざり(躄)だ。かんねようー。誰も相手にしてくれねんだ かんねようー」その声はだんだん近くなる。家の前を通る時、一番はっきり聞える。そして、その声はだんだん遠ざかってゆく。淋しかった。冬など寝床の中で凍える思ひで、その声を聞いた。「俺はいざりだ かんねよー。誰も相手にしてくれねんだ かんねよー」
コキといふ中年の男の乞食が居た。何故コキといふか誰も知らない。唯みんなコキ、コキといふ。店の中にづづっと入って来て左の掌を上にむけ、右の人差指でその中央をつつく。唖だから何ともいわない。ア、ア、アアといふだけである。その掌に銭でも食物でも乗せろという意味だ。五厘でも一銭でも、やるまではア、ア、アアと掌をつついてゐる。中には腕をつかんで外につれ出す家もあった。
コンちゃんといふのは必ずバケツを持って踊るような足どりで、三歩前進二歩バックして歩く。だからなかなか進まない。併し、本人は泰平なもので、目的地に五分の一の速度で着くことを意に解しない。チャッ、チャッ、チャッと歩いて、トッ、トッと戻る。何故そんな歩き方をするのかと聞いても、ニヤニヤ笑ふだけだ。その足つきで店の中に入ってくるのは何ともユーモラスだった。
オッフォンといふのも居た。ヒゲ男の偉丈夫で町を歩くとき自分の名前を名のり、「森川ユーゾー、おっほん」といって入って来て、框(かまち)に腰を下し「お茶」といふ。どういふものか店ではオッホンが来るとお茶を出した。お茶をのみ終るとオッホンはぼう然と手を出し一銭(今の五円位)もらって帰る。或る時のみ終わった茶碗にペッと唾を吐いたので、私(小学二年生)が「汚いなあ」といったら、「馬鹿もん!」とおこられた。
おせいちゃんといふ背の高い女の乞食が居た。町外れの藁の家に住んでゐて昼間は町に出て来た。心得たもので、金のくれる家だけ入り、あとは町をぶらついてゐた。小学校の生徒はおせいちゃんをからかふのが好きで、後ろからわらじやなんかをぶっつけると二十歩ぐらい追ひかけてくる。それが面白くて「おせい、おせい」といって背中にぶっつけては逃げる。ほかの乞食はぶっつけても、追って来ないからつまらなかった。或る日、「おせいちゃんが死んだ」といふ友達が居たので町はずれの藁の家を見に行った。その時は、もう藁の家の中はからっぽだった。
いろいろな人から面白い乞食の話を聞いた。その話は別に書く。モロッコのフェズの路次、大寺院の裏で夕ぐれ時、石に靠れて小憩してゐた。ひょっと気付いたら二十人居る男たちはみな乞食だった。びっくりしてすぐ立去った。私の句に「路次暑し 我よりほかはみな乞食」といふのがある。



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 江戸尻取歌・・・柏木老人から聞いたもの
 

牡丹に唐獅子竹に虎、虎を踏まへた和唐内、内藤様は下り藤、冨士見西行後ろ向き、剥き身蛤馬鹿柱、柱は二階から縁の下、下谷上野の山葛、桂文治は噺家で、でんでん太鼓に笙の笛、閻魔はお盆とお正月、勝頼様は武田菱、菱餅三月雛祭、祭万燈山車(だし)屋台、鯛や平目に鰤鮪、ロンドンエゲレス大港、登山駿河のお冨士山、三遍廻って煙草にしょ、正直正太夫伊勢のこと、琴や三味線笛太鼓、太閤様は関白ぢゃ、白蛇の出るのが柳島、縞の財布に五十両、五郎十郎曽我兄弟、鏡台針箱煙草盆、坊やはよい子だねんねしな、品川女郎衆は十匁、十匁の鉄砲玉、玉屋は花火の大元祖、双盤の鉦がどんちゃんちゃん、ちゃんやおっかあ金お呉れ、お暮れがすんだらお正月、お正月には宝船、宝船には七福神、神宮皇后竹之内、内田の剣菱七つ梅、松竹梅は菅原で、藁で束ねて投島田、島田金谷は大井川、可愛けりゃこそ神田から通ふ、通ふ深草白夜の情(なさけ)、酒と肴は三百ありゃままよ、ままよ三度笠横っちょにかむる、かむりたてに振る相模の女、女やもめに花が咲く、咲いた桜に何故駒繋ぐ、繋ぐ髷に大象も止まる、丸い卵も切りよで四角、角(かく)に出やせぬ窓の月、月に叢雲花に風、風に柳はわしが胸、宗盛様は火の病ひ、家内(かない)安全火の用心、用人(にん)殿様御家来衆、春藤玄番は寺子屋で、やれやれ御苦労お休みよ、三保の松原清源寺、源氏の大将伊豫の守、上方見物江戸道者、釈迦に達磨で南無阿彌陀、三田の生れは渡辺で、屁でもかぎやれ糞くらへ、頼光様は囃すがお好き、鋤に掛矢に鎌に鍬、慈姑は一つで十六文、紋は九つ九曜星、欲しい欲しいが慾の道、短か袴に長大小、正ちゃんひょっとこ般若面、めん鳥おん鳥鳩ぽっぽ、ぽっぽがふくれりゃお金持、(以下略)

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 自己暗示・・・セルフサジェスション
 

中学に入った。一高入学者数全国三位〜四位の進学校で秀才が揃ってゐた。受験勉強などしたこともない田舎の小学校から入ったので、入学試験の成績順位はクラスの中でビリだった。此の成績が発表されたときはショックだった。田舎の小学校では全学年クラス一位だったからである。発奮して勉強し一年末の成績はクラス一位となった。ところが小学校の時、家に歸って殆ど充ててゐた読書時間が殆どなくなってしまった。残念なので結局夜の睡眠時間をへらして読書に充てることにした。睡眠時間は五時間とし此の習慣は六十八歳まで続く。これと共に何時に起きやうと思ったら必ずその時間に眼を覚ます自己暗示(セルフサジェスション)も身につけた。これは大へん便利で、夜中の三時に起きやうと、眠る時腕時計を見て心に言ひ聞かせると五分以内の誤差で必ず三時に眼を覚ます。だから目覚まし時計など買った経験もない。軍隊の時海底聴音所の所長になって、聴音機交替員が二時間毎に「第三直交替員交替します」五分後に「第二直交替員交替しました」と隊長室前で報告する時、普通の隊長は眠ったままだが自分は必ず「よし」といって、隊長は何時眠るのかと不思議がられた。私には昼寝の風習は全くなく、六十歳まで昼間眠ること、ウトウトすることなど一回もなかった。
森鴎外の在小倉作品中「僕はセルフサジェスションを持っているから起きたい時間に何時でも起きられる」と書いてあるのを見て鴎外を尊崇してゐるので親近感があり嬉しかった。また畏友糸園辰雄君も同じ能力を持ってゐる。



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